聖書のみことば
2023年1月
  1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月8日主日礼拝音声

 主イエスの反論
2023年1月第2主日礼拝 1月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第12章35〜40節

<35節>イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。<36節>ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』<37節>このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。<38節>イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、<39節>会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、<40節>また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 ただ今、マルコによる福音書12章35節から40節までをご一緒にお聞きしました。
 35節に「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。『どうして律法学者たちは、「メシアはダビデの子だ」と言うのか』」とあります。今日の箇所は、注意を払わないで読んでしまうと、つい聞き流してしまうような箇所かも知れません。けれどもよく考えてみると、ここでは主イエスが不思議なことをおっしゃっています。「メシアはダビデの子だと言われているけれども、それは本当のことだろうか」と問いかけておられるのです。35節だけではなく37節でも念を押すかのように、「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」とおっしゃいます。

 メシア、つまり救い主が、「ダビデの子、ダビデの子孫であるかないか」というようなことを、日頃私たちはほとんど考えていないのではないでしょうか。私たちにとっては、ダビデの子孫とか、その血筋という事柄は、ほとんど意味を持っていないと思う方がいらっしゃるかも知れません。「自分にとって大切なのは主イエスただお一人であって、それ以外のことは、聖書の中に色々書かれているかも知れないけれども、残念ながらあまり詳しくは知らない。また聖書全体について深く分かるということも難しそうに感じられる。大切なのは、主イエスがいつもわたしと共にいてくださり、どんな時にも支えてくださる救い主であるということだ」と、そのようにお考えの方もいらっしゃるだろうと思います。
 確かに私たちの信仰生活の中心に、「十字架にお掛かりになり復活された主イエス・キリストがいつも共にいてくださる」という事実があります。主イエスは、私たちの思いの強さ弱さや気の持ちようで、近くなったり遠くなったりするような方ではありません。私たちが神のなさりようについて分からなくなり、神や主イエスに背中を向けてしまう時にも、だからといって、主イエスが十字架にお掛かりになるのを止めるということはありません。主イエスは私たちの罪のために十字架にお掛かりになった救い主として、絶えず私たちの傍らにおられます。くり返し私たちに呼びかけて、「わたしが共に歩んであげるから、わたしと共に生きてゆくように」と招いてくださいます。主イエスは私たちの救い主として、いつもそのように伴ってくださるのです。

 ところで、今日の箇所で主イエスが気にしておられるのは、まさしく、その救い主である方とは一体何者なのだろうかということです。「どういう方が私たちの救い主なのだろうか」と、主イエスは尋ねておられます。
 主イエスはここで、「律法学者をはじめとして世の中の多くの人々は、救い主がダビデの子、ダビデの子孫であり、またダビデの再来であるような人物だと言っている。しかし果たして、それは本当なのだろうか」と疑問を投げかけられます。はっきりとは言われませんが、どうも主イエスの口ぶりからすると、「救い主メシアは、いわゆるダビデの子ではない」と言いたげなように聞こえます。
 けれどもここで私たちが戸惑ってしまうのは、主イエス御自身は、まさしくダビデの血筋であるということです。最初のクリスマスの時、夫ヨセフが身重の妻マリアを伴ってガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムへ長い危険な旅にあえて出掛けたのは、ヨセフがダビデ家の出であり、ダビデの血筋の者だったためです。ヨセフは住民登録をするために、いわゆる本籍地であるベツレヘムにやって来たのでした。ヨセフはダビデ家の末えいですから、その家庭に生まれた主イエスもまた、ダビデの家の出、ダビデの子らの一人なのです。ローマの信徒への手紙1章3節にも、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、」と言われているとおりです。主イエス御自身はダビデの子孫の一人であり、確かに「ダビデの子」と呼ばれても何もおかしくない方です。
 そして、この主イエスは私たちの救い主でもあります。そうするとやはり、「救い主メシアはダビデの子」ということになるのではないでしょうか。それなのに、どうして主イエスは、「メシアはダビデの子である」と言われて待ち望まれていることに異和感を示しておられるのでしょうか。

 「ダビデの子よ」という呼びかけは、既に、マルコによる福音書10章47節で、視覚障害者だったバルティマイによって、主イエスに呼びかけられていました。10章46節から48節に「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」とあります。目の不自由だったバルティマイが「ダビデの子よ」と主イエスに呼びかけ、そして主イエスによって目が開かれた後には、ガリラヤから従ってきた弟子たちと一緒になって、エルサレムへと向かう主イエスに従っていきます。
 似たようなことが、エルサレムでも起こります。子ろばに乗ってエルサレムにお入りになる主イエスに向かって、大勢の人々が歓呼の声をあげて、主イエスをまるでダビデの再来でもあるかのように迎えるのです。11章9節10節に、「そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」とあります。明らかに、群衆は主イエスのことを、古のダビデ王のような優れた指導者だと考えて、喜びながら迎えています。ダビデの王国がここから再び始まるかのように、「父ダビデの来たるべき国に祝福があるように」と言って大喜びしているのです。

 こういう「ダビデの子」という言葉の使われ方を聞いていますと、どうもそこには、単なる血のつながりというだけではない、もう一つ別な意味での「ダビデの子」という言葉の使われ方があったことが分かってきます。単純に血のつながりにおける子孫ということであれば、ダビデ王の子孫はヨセフや主イエスだけでなく、他に何十人か、あるいは何百人もいたかも知れません。けれどもそれらの人々すべてを、律法学者たちが「ダビデの子」と呼んでいる訳ではありません。
 「ダビデの子」という言葉には、血筋ではなく、もっと別の「救世主」を表すような意味がありました。それは古のダビデ王のような、巧みに人々をリードして団結させ、ユダヤの国をもう一度強い国民として立ち上がらせ、ローマ帝国の支配から脱け出させ、逆に周囲の国々や民族たちを支配するという幻の中にある救世主です。エルサレムで主イエスを喜び迎えた人々が、皆、主イエスのことをよく知っていた訳ではありません。大方の人は、主イエスがダビデの血筋だと知って「ダビデの子よ」と呼びかけたのではなく、ただ有能な政治的指導者になってくれることを期待して、「ダビデの子よ」と呼びかけたにすぎないのです。ですから、主イエスを歓呼の声で迎えたのと同じように、数日後に「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ声が聞こえてきたら、今度は雪崩を打ったように、主イエスを攻撃する側にまわり、総督ピラトが自分としてはこの人物に何も罪を見い出せないと語っても聞く耳を持たず、主を十字架に磔にしてしまいます。
 そういう意味で、人々の間で語られていた「ダビデの子」という言葉には、多分にご都合主義のようなところがありました。自分にとって都合が良いと思える間は、ダビデの子、ダビデの再来であると言って勝手に持ち上げておいて、そのくせ都合が悪くなると簡単に見限り、見捨てるような軽薄な無情さが、ダビデの子を求める人々にはあったのです。そして、主イエスはそういう人間の不気味な力のうねりに翻弄されるようにして、数日後には十字架に磔にされてしまうのです。

 けれども考えてみますと、それは、2000年前のエルサレムの住民たちに限った姿ではないでしょう。私たち人間には、大なり小なり、誰であっても自分中心に物事を進めたがるクセがあるのではないでしょうか。自分に都合の良い指導者が現れたら喜んで迎える、そういうことは私たちにもあるだろうと思います。そういう意味では、「ダビデの子」は、私たち人間が何でも自分の願ったとおりのことが実現して欲しいと望む願望を投影したひとつの偶像、アイドルであると言えるかも知れません。
 主イエスは、そういう、当時人々の間で広く口に上っていた「ダビデの子」が、「本当に人間を救うメシアなのだろうか」と問いかけました。多くの人々が願った「ダビデの子」が現れて、自分たちが望んだとおりに周囲の国々や民族を従えてゆく政治的指導者になること、それが本当の救い主の姿なのかということをお尋ねになったのです。

 主イエスはむしろ、大勢の人々が自分の願いや思いを投影して、ひとつの偶像、アイドルに仕立て上げたダビデ王が、実際にはどのようなあり方をしていたかということに注意を向けさせようとします。旧約聖書の詩編110編の言葉を引用して、実際のダビデ王はむしろ、まことの主である神の前に、大変慎ましく、平らな姿であったことを思い出させようとするのです。36節に「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と』」とあります。
 詩編110編は、ダビデが聖霊に感じて一つの幻を示されている詩です。それは、神が天上でまことの王を即位させる即位式が行われているという幻で、ダビデは聖霊に感じてその天上の即位式の観客になったような思いになって、幻を見て語っています。「主は、わたしの主にお告げになった」とダビデは語ります。この最初に出てくる主は、ヤハウェ即ち「父なる神」です。その神が「一人の方をダビデの主として、まことの王として立てられる」というのがこの幻です。「主は、わたしの主にお告げになる」という中で、二番目に出てくる「わたしの主」というのが、ダビデ王にとっても主である主です。 ダビデは、本当にふさわしい王、この地上を治めるのにふさわしい方が、神により、まことの王として立てられる幻を見て喜んでいるのです。それが、ここに述べられている詩編110編の場面です。
 主イエスは、そのようにダビデ王が喜んでいる姿を示しながら、「まことの救いは、自分の思いどおりになる自己実現などではなくて、まことに王として相応しい方の御支配の下に生きることこそが、本当の意味での救いである」ことを教えられました。しかもこのことを、人々が偶像に祀り上げたがるダビデ王の喜ぶ姿を通して、教えられたのです。

 私たちにとって本当に良いこと、願わしいことは、決して自分の思いどおりに生きてゆくことではありません。自分にとって良いことが起こる時もそうでない時も、まことに深い憐れみと慈しみに満ち、知恵と配慮に富んでおられるまことの王の御支配の下に生きるようになることこそ、願わしく喜ばしいことなのです。そういう救い主、まことの主に出会って、主のもとで、良い時も悪い時も生きることができることこそ、本当に願わしく喜ばしいことです。

 けれども、そう言われても、やはり私たちは、自分の思いどおりになったら良いと思うことがあるのではないでしょうか。私たちにとっては、自分の願いや思いがそのとおりに実現することだって、充分嬉しく、また望ましいことに思えるでしょう。どうして主イエスは、私たち人間の思いが実現することを、「良いこと、願わしいこと、救い」とおっしゃらないのでしょうか。

 こういう疑問について主イエスは、いわゆるダビデの子を偶像として有り難がり、盛んにダビデの子を救い主だと吹聴していた律法学者たちの姿を例にとって教えられます。律法学者たちが上辺はもっともらしく神に忠実に従って生活することを教えていながら、実際には虚栄と偽善の中に生きている事実を指摘して、警告されます。38節から40節に「イエスは教えの中でこう言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる』」とあります。
 主イエスは「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃって、二つのことを指摘なさいます。当時、律法学者たちは、衣のすそに房がつけられた長いコートのような上着を羽織っていて、その格好からすぐに律法学者であると分かるような服装をしていました。その姿で歩き回り、大勢の人々から挨拶をされたり、礼拝の場で目立つ中央の席に着いたり、宴会でも主賓として丁寧に扱われることを喜ぶ人が多かったのです。これは自分が目立ち重んじられたいという虚栄心の表れです。多くの律法学者たちにその傾向が見受けられたのですが、しかし、虚栄心を抱くのは、律法学者たちに限ったことではないでしょう。ここにいる私たちだって、心の奥底を覗いて見れば、案外、虚栄心に満ちているかも知れません。
 そういう意味で、「律法学者たちに気をつけなさい」と言われているのは、律法学者はいわば悪い人のお手本のような意味でここに登場させられているのであって、律法学者だけに気をつければよいということではないように思います。主イエスは全ての人の心の内にひそむ虚栄心を問題にしておられるのです。
 もう一つ、主イエスが律法学者たちを引き合いに出しながら警告しておられるのは、偽善です。上辺だけの、見せかけの愛や正しさです。いかにも情け深い人であるように見せながら、実際には弱い立場にあるやもめたちを食い物にし、貧しい人々からせびり取るようにして利益を得ている姿が非難されています。本当はお金を得たいと思っている魂胆を隠すために長い祈りをして、言葉数が多ければ神に対して熱心だと思わせ、相手を油断させようとするあり方が厳しく非難されます。
そういう律法学者たちの心の内、また実際のありようを神は御存知なので、人一倍厳しい報いが裁きの日に臨むことになるのだと、主イエスはおっしゃいます。
 しかしこのような、上辺を取り繕い、いかにも自分は善良な者であるらしく見せかけるというあり方も、律法学者だけに限られるものではないでしょう。私たち自身の中にも、他の人から良く思われたい、良く見られたいという思いがあって、上辺を飾ったり取り繕うようなことがあるのではないでしょうか。

 主イエスはしかし、律法学者を攻撃することが目的なのではなく、律法学者を例に出しながら、その中にひそんでいる俗っぽさ、俗物根性を暴露することで、「どうして、自己実現が私たちにとっての本当の救いにならないか」ということを教えておられるのです。
 私たちは日頃、自分の思いや願いを是非実現したいと考えることが多いのですが、実はその実現したいと思う自分自身の中に、既に虚栄心や偽善が潜んでいて、私たちは精神が病んでいるようなところがあるのです。どんなに自己実現したいと願い、またそのように生きてみても、経験から分かるように、私たちの欲求には際限がなく、結局は本当に満足することなく無限に自己実現をくり返しても、やはりこれで良いという風にはなりません。ですから、「ダビデの子」という偶像に託して、自分たちの願いが実現することが良いこと、救いだと教えることに対して、主イエスは、「それは違う」と言われました。
 むしろ主イエスは、「今日、神に愛され支えられ、生かされている一人一人として、私たちは生きることができる。そのことこそが本当の救いだ」と言われます。そして、「そのことを知らせてくださるまことの王があなたの上に立つこと、それが本当の救いである」ことを、ダビデ王が喜ぶ姿を通して教えておられます。
 私たちが自分の思いを基準にして生きようとする時には、自分に都合よく物事が進んでいる間は喜んでいられますが、しかしひとたび自分にとって良くないことが起こったり辛い思いをする時には、「もうこんな人生は嫌だ」と思って逃げ出したくなってしまうことがあるのではないでしょうか。しかしそのような時に、神は、「それでもあなたは、わたしの子なのだ。あなたは与えられた命を生きるのだ」と言ってくださり、まことの王を私たちの上に立ててくださって、私たちに語りかけてくださるのです。

 そして、ダビデ王が幻の内に仰ぎ見た「わたしの主、まことの救い主」として神がお立てになった方は、実は、「主イエス・キリスト」その方でいらっしゃいます。
 主イエスは、どんな人に対しても、神の慈しみと憐れみを持ち運ぶために、御自身は、最も辛く厳しい飼い葉桶から十字架への道を歩まれました。今日の箇所は、十字架にかかる救い主として歩みを進めておられる主が、ふと、その歩みの中から、全ての人間に問うていらっしゃる言葉なのです。
 「あなたにとって本当の救い主は一体誰なのか。それは、ダビデの子に現されるような、あなたの願いを実現してくれるような都合の良い相手なのか。そうではないだろう。あなたの救いは、自己実現などではないはずだ」と主イエスは言われます。

 憐れみと慈しみに満ちたまことの救い主に出会わされ、その方に伴われて生きることこそ、私たちにとって、本当に願わしい、喜びであり救いです。そのような主に伴われて、新しい年を歩む者とされたいと願います。

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